昨年10月にお話しした講演(テープ起こし)の半分程度への整理を頼まれました。長文ですがご一読ください。
「大震災・津波・原発事故 −復興と被災者支援の現状−」
(防災・減災対策を、しっかり政治の場で) 3月11日、14時46分に東日本大震災が発生しました。 政府の主な対応(初動対応)は、14時50分に官邸対策室の設置、緊急参集チームの招集となっています。私自身は、遅い食事を一人で済ませ部屋に戻るのにエレベーターに乗ったところでグラッときました。議員会館は新しくなり最新のエレベーターでしたから、2階で扉が開いてコンピューター音声で「ただちに外へ出てください」というようなことで閉じ込められずに外へ出ました。ところが相当揺れが激しかったですから、エレベーターホールから全然動けない、天井を見ながら何か落ちてこないかなとずっとそこで耐えていて、少し揺れが治まってから部屋に戻りました。このように3月11日が始まった訳です。 部屋のテレビは被災地の状況を刻々と伝えていましたが、車がまだ海の方へ走る、津波が来る。“なんでぇ、そんな所におったらあかんやろ”と叫びたくなる画面が続く、そういう映像を皆さんもご覧になったと思います。
東京は、JR・私鉄が全部止まりましたので、いわゆる帰宅難民ということで私も議員会館に22時ぐらいまでおりましたけれども、当時、藤村先生は幹事長代理という大変重要なお仕事をしておられまして、地震発生後ただちに設置された党震災対策本部の事務局長として、金曜日の午後から土曜日、日曜日、月曜日の午後までともかく72時間、政府も党も寝ずの徹夜体制で救出にあたるという状況でした。 資料にありますように、それぞれ津波の大きさが載っております。『未曾有の災害』あるいは『千年に1度の災害』と言われていますが、私には、本来は政治の場でこの災害をともかく防止する、あるいは津波の被害を少しでも小さくということをやってこなかった反省というのがあります。
千年に1度と言われていますが、869年に貞観地震というのがありまして、その次が1611年の慶長三陸地震、明治になりますと1896年(明治29年)に明治三陸地震、1933年(昭和8年)に昭和三陸地震、そして記憶に新しいところでは1960年、遠く南米のチリで地震が起こって、その津波が三陸に押し寄せ47名の方が犠牲になっておられます。
いろんな文献を調べれば、38メートルまで津波がきたとか、あるいはここよりは下に住むなという昔ながらの言い伝えが石碑で残っていたとか、ある意味100年に1度と言いえても、千年に1度だから想定外だったということは、やはり政治家は言ってはならないんじゃないかと思います。たとえ次が100年後であっても少なくとも人的な被害が出ないような街づくりをしていかなければならないと強く感じています。
また教訓として、1896年の明治三陸地震から1933年の昭和三陸地震までが37年間です。明治、昭和三陸地震は同じぐらいの家屋の被害があるのですが、亡くなった方は明治三陸地震が2万人、昭和三陸地震が5千人と4分の1なのです。いろんな形で語り継がれて人的被害が4分の1だったとするならば、これからどういうふうに街づくりをしていくのか、どういうふうに次の大震災に向けて防災、あるいは被害を少なくする減災を考えていくのかということが政治の場でも非常に重要になってくると思っています。
(いまだ行方不明者は3,450名、人的被害と建物被害の状況) 資料の2枚目ですが、被害状況です。これは10月18日のホームページでありますが(正確を期するため平成24年1月10日の数字にできるだけ書き直しました、以下同じ)、今は2週間に1度ぐらい更新されています。死者が15,844名、行方不明が3,450名、死者の「+3名」というのは4日から18日の間にご遺体が3つ見つかったということ、行方不明者「−107名」というのはご遺体の身元がわかったということです。実は、新聞の死者・行方不明者の合計は一時2万8千名を越えていました。なぜかと言うと、身元不明のご遺体は死者と行方不明にダブルカウントされますから、身元が判明していく中で2万名をきるようになってきたのが現状であります。
死者の数には家族の方があきらめて死亡認定を申し出た者を含んでおり、だからこの3,450名というのは、家族の方がやはりご遺体が見つからないとあきらめきれないということで、今も死亡認定を出しておられない数だともいえます。
人的被害の一覧表としては北海道から神奈川まで、これを見ると端的なように、震度7の地震を記録しました宮城県で死者9,506名、行方不明1,861名、次に岩手県で死者が4,667名、行方不明1,368名です。福島県では人的被害は他に比べると少ないですが原発事故のために復旧復興が非常に遅れています。宮城県と岩手県では人的被害は大きかったけど、ある意味津波が引き上げた後、気を取り直して復旧復興にがんばろうとなった訳ですが、福島県の場合は、着の身着のままで3月12日の深夜に浜通りから逃げ出し、いつ家に帰れるんだろうということも含めて、その復旧復興になかなか気持ちが切り替わらないこと、それに私も行きましたけども双葉郡8町村は立ち入り禁止で、相当長い期間ご遺体捜査もできなかった事情もあります。
私も7キロ圏内にタイペックス(防護服)を着て当時の岡田幹事長と一緒に参りました。浪江町の海岸沿いを警察の方と自衛隊の方がほんとに献身的にご遺体捜索をされているのを視察し、お礼を申し上げました。どうするかと言うと、まずは人海戦術で周りを点検して、アルバムとかハンドバックとか遺留品を集める、次に重機を使って瓦礫を取り除きその下にご遺体があるかどうかを確認していくという繰り返しでした。
見つかったご遺体は、相馬市の工場跡地に安置されており、ボードにお一人おひとりの顔写真、その下に着ておられた服や所持品の写真を展示し、顔写真がある分は顔写真で、顔写真がない分は衣服でご遺族がご遺体を探す状況でした。 身元不明のご遺体も発見された市町村の役場にお渡しをして火葬するのですが、その前に当然DNA鑑定をとります。発災直後から全国の歯医者さんが現地に入って、ご遺体お一人おひとりの歯型をとって、それを後ほどのために保管します。もう1つはボランティアの方が、一旦ご遺体から服を脱がせて洗濯をして、それを写真に撮って展示する、こんな精神的にもきついご遺体安置所での仕事でした。
それから建築物の被害が、全壊が127,212戸、半壊が232,458戸、家を失った方が35万世帯ということですし、一部破損が657,742戸あります。参考として阪神淡路大震災の時の数字があります。全壊390,506棟、半壊144,274棟、この時は火事が発生して全焼というのが7,036棟、一部損壊が390,506棟です。東日本大震災は、神戸のように人口密集地域ではありませんから、これだけの家屋が壊されたということは相当広範囲に被害がでたということだと考えます。
(全国に広がる約34万人強の避難者) 避難者は、全国に避難されている方が72,581名です。一方、応急仮設住宅は52,182戸が完成し、その他に公務員宿舎や公営住宅に6万戸ほどの受け入れ可能な所があり16,488戸に入居済みです。各県ごとの一覧があります。例えば、大阪府にも親族知人などを頼って294名、それから大阪府・市営、雇用促進住宅などに避難をしておられる方が1,153名です。こういう形で全国に避難をされています。
もう一方の資料に「仮設住宅等への入居状況」があります。岩手県で319団地、12,875戸、民間借り上げ住宅が3,448戸、公営住宅等が1,003戸。宮城県が400団地、17,137戸、民間借り上げが23,359戸、公営住宅等2,039戸となっています。そして福島県が161団地、10,447戸、民間借り上げ21,444戸、公営住宅等2,039戸です。ここで9万戸に262,205名に避難しておられますから、お家に戻れない方は33万4千人に上るということです。
宮城県と福島県では民間借り上げの方が仮設住宅を上回っています。例えば奥さんが心臓の病を持っているので到底避難所には行けないとか、自閉症の子どもがいるので大勢の所では皆さんに迷惑をかけるかも知れないと心配してとか、あるいはペットがいるので避難所には行けないとかで、最初はご自分で民間アパートを探して避難をされ方々です。また原発事故で自主的に避難された方、この民間アパートも仮設住宅とみなそうということで、改めて県と大家さんと被災者の3者が契約書を取り交わして、国が家賃を負担する取り扱いにしました。
ただ、これが今問題になっています。仮設住宅であれば、そこでどんな生活支援が必要か見えます。サポート拠点を作って、被災市町村、社会福祉協議会とか、ボランティア団体が一軒一軒お尋ねをして「何か心配事はないですか」と、身体の問題、心の問題、収入の問題などお聞きをして、必要なサービスを提供していくことができます。しかしご自宅の2階で暮らしておられる方、民間の借り上げに入居した方はバラバラになっていて、なかなか手を差し伸べられないことです。仙台市では、民間借り上げも含めてアンケート調査をし、保健師や社協の職員が回ったりし始めていますが、まだまだ遅れているというようなことがあります。
(民主党・福島県対策室長として被災地回り) 私がなぜ被災地と係わるようになったかと言いますと、3月11日に党に震災対策本部が設置され、10日ほど経過した時点で被災地からの要望を省庁や官邸に伝える部署として青森、岩手、宮城、福島、茨城と5つの対策室ができました。それぞれ5人ずつが担当になり、特に3県はそれぞれ対策室が一手にいろんなことをお聞きする、1週間前に聞いたこと、昨日聞いたこと、今日聞いたこと、全部つながる形にしました。
福島県は今でも「会津」「中通り」「浜通り」と気候や文化圏が違います。原発20キロ圏内というのは浜通りですので、浜通りの8町村は役場そのものも会津や中通りの方に避難をしました。役場機能も疲れ切っているということで、これは東京でFAX、電話を待つということでは進まないだろうということで、みんなで被災地に行くことにしました。 避難をしている仮役場にお伺いをして、「今どういう支援が必要ですか」と町村長さんとかにお聞きをすることを繰り返しました。最初の頃は職員の方が朝5時ごろに起き出して、夜の10時11時まで働いて、その後その役場の廊下に布団を敷いて寝る、そして3食はパンと握り飯だけとか、役場も避難所のような状況でがんばっておられました。そういう中で大規模避難所も含めて出かけて行って、そこでいろんなことをお聞きして帰ってきて、それを省庁にぶつけるとこういう仕事をしておりました。
もう1つは、阪神淡路大震災のいろんな教訓を聞く中で、避難所ではプライバシーもないし不自由な暮らしだけれど「災害救助法」が適用される。ところが仮設に移ったとたんに自立生活が求められる。将来に対する不安とか、健康に対する不安とか、孤独死や自殺が起こったりしたので、仮設を建設している間から仮設住宅に移った時に、皆さんが希望を持って、自分の家に帰れるまでがんばろうという気持ちになっていただくということをしないといけないということになりました。
そこで福島県対策室として、これは岩手や宮城にも関係しますから呼びかけ、例えば阪神大震災の時にボランティアをされた方を呼んだり、あるいは三宅島が噴火で3年以上全村避難をしたときの様子を村長さんにお聞きし、どういうふうにみんなの気持ちを繋いでいったかなど、勉強会を続けました。一方、お盆までには仮設に移って貰おうと党内に「仮設住宅建設促進チーム」というのがあり、私も参加しておりました。仮設の建設が一段落した時に建設促進チームは一旦解散し、その代わりに「仮設住宅等生活支援チーム」を立ち上げることになり、私は福島県室長と兼務で事務局長になり、今度は福島だけはなく岩手、宮城県にもお話を聞きに行くということで、仮設住宅を中心にした活動に専念しているところです。
(まずは除染、福島に希望を取りもどしたい) 次に、原発の事故についての現況を少し申し上げておきたいと思います。14時46分に地震が起きて福島第一原発(イチエフ)が5つの原子炉が止まりました。4号機だけは定期点検中でした。ところが地震発生から30分ほどして浸水高で15メートルほどの津波が来て、非常用ディーゼルエンジンが水に浸かってしまう、燃料タンクは流されてしまうということで、全交流電源喪失という重大事故になりました。これも歴史的にいろんな大地震、津波が来ていることから言うと、想定外では済まされない問題です。 朝日新聞が「プロメテウスの罠」という連載を続けていますが、まずは3キロ圏内の方が逃げろと言われて、原発より北の人は北西方向、福島市の方に逃げました。南の人はいわき市の方に逃げました。2〜3日で帰れるだろうと着の身着のままで、それが12日の午後に水素爆発を起こし、大量の放射性物質が拡散することになりました。
そして4月22日に同心円で20キロ圏内を「警戒区域」として立ち入り禁止に、20キロから30キロ圏内「緊急時避難準備区域」に、遅れて1年間の被曝線量が20ミリシーベルトを超える地域、飯館村と川俣町の一部が「計画的避難区域」になりました。その後ホットスポットということで、伊達市で111所帯、南相馬市で130所帯ほどが、「特定避難勧奨地点」に指定されています 1号機、2号機、3号機は、いま100度をきっております。燃料プールは20度から30度で安定しています。循環冷却装置が動き出し、窒素を注入することによって、水素爆発の可能性は低くなりました。7月18日に第1ステージの完了ということで、9月末にこの「緊急時避難準備区域」は解除されました。今後20キロ圏内の「警戒区域」も同心円で立ち入り禁止にするのではなく、細かく放射線量を調べることによって、ギザギザに解除していくということも可能だと思います。
今後、どう除染をしていくのかというのが大事になっています。いろんなことが4月段階から試されていたのですが、一番有効だったのは表土5センチを削ることによって大体20分の1に放射線量が下がるということが明らかになりました。最初、郡山の小学校で自主的に実施されました。南相馬市のでは100×70メートルの広さで深さ1.5メートルの穴を掘って、そこに学校内の汚染物質を剥ぎ取った土を入れ、その上にきれいな土をかぶせる。屋根のとい、雨水が落ちた所が放射線量が高い、建物のコンクリートの壁などはあまり高くないので高圧洗浄機で洗っていくという作業を続け学校が再開されています。
じゃあ水はどうするのか、原発20キロ圏内の町村は都市下水が普及しています。つまり水を流せば側溝から下水に流れ、最後は下水処理場にいきますから、そこで放射能を含んだ下水汚泥をつかまえれば、町の中は一定きれいになるのです。
除染で大体1兆1千億円、県とか市町村もすごく神経質になっていますので、財政的には国が負担することで、20ミリシーベルト以上は国が、以下は市町村が計画を策定し除染することになりました。
私は、12日に3キロ圏内に入りました。3キロから20キロ圏内は企業が一時立ち入りの許可を取り、工作機械を運び出して20キロ以遠の仮工場で仕事を再開しています。立ち入り件数が述べ7,300件になりますが、3キロ圏内だけは現地対策本部から許可がでませんでした。
「緊急時避難準備区域」が解除され、やっと3キロ圏内にも立ち入り許可が出るようになりました。結局6ケ月放置をしてきたという申し訳ない気持ちも含めて3キロ圏内に同行しました。Jヴィレッジという所から車で入っていきますと、線量計はどんどん上がっていきます。ある所では37マイクロシーベルトになりました。工場敷地内は10マイクロシーベルトぐらい、工場内は5マイクロシーベルトぐらいとむしろ低い数値で、そこで大事な工作機械をひっぱり出してトラックに乗せ搬出作業が続いていました。「ほんとに長い間申し訳なかったですね」と言ったら、「稲見さん、そこをちょっと測ってみてください」と言われ、芝生の場所へ行くと179マイクロシーベルトという数値が出るのです。これ1時間あたりですから8,760倍すれば1,500ミリシーベルトになる計算で、そこで寝転がっていたら全然ダメということです。やはり3キロ圏内は場所によっては非常に線量が高く「帰宅困難地域」が残らざるを得ません。なんとか20キロ圏内、30キロ圏内は、子どもたちの校庭、保育園庭、通学路、そして公園、生活の場の除染を行い、福島の人たちが故郷に帰れるというような希望につなげていきたいと思っています。
(国がすべきことは被災地への財政的支援) 4月に1次補正で4兆円、7月に2次補正で2兆円、第3次補正では、全体で12兆円、その内9.1兆円が被災地に届くお金ということになっています。第1次、第2次補正はなんとかやりくりをして捻出をして借金を増やさなかったですが、今回の9兆円分、さらにはあと7兆円ぐらいが5年間で必要になります。その内九9兆円分を増税でお願いできないかというのが今の私たちの立場です。例えば復興の公共事業があります。本来であれば、全部申請をして補助金という形で1つずつ出ます。それを今回は一括交付金という形で1.9兆円分にまとめました。しかもその補助率を8割ぐらいまで上げて、例えば100億円の事業であれば80億円まで一括交付金で賄う、残りの20億円分を特別交付税で渡すことで地方負担をゼロにしました。一括交付金で1.9兆円、特別交付税に1.6兆円、合計3.5兆円の復興財源が補正予算に入っています。
仮設住宅に入居するとやっぱり不安が生活費、収入のことです。義援金なども出ていますが毎日働くことで気持ちも安定しますので、「仕事出し」が重要です。臨時雇用創出基金というのが非常に有効で、石巻市では市役所が頑張って災害復旧のための仕事をたくさん作り被災者を臨時職員として雇って、あるいは委託先に被災者を雇って収入を得てもらうようにしています。
緊急雇用創出事業で言うと、岩手県は150億から200億程度を毎年ほしいと、宮城県は2年間で600億程度、福島県は5年間で825億を要望していましたので、これを上積みしようと、当面第3次補正で1,500億円上積みされることになりました。直接、被災地の雇用につながると思います。
それから地域支え合い事業(サポートセンター)というのがあります。これがすでに3県に20億ずつで、80ケ所ぐらいサポートセンターが作られ動き出しております。私が厚生労働省に言いましたのは、仮設住宅団地には同じようなニーズがあるはずだ。したがって、「手挙げ方式」でなく、100戸ぐらいの仮説団地にはサポートセンターを作ったらどうか、作ることによってみんなが知恵を出しニーズが掘り起こせると主張し、90億円を積んで、240ケ所ぐらいにサポートセンターを広げていくことになりました。
私ども国会議員は4月から合計で300万円の歳費の返上を行いましたが、22億にしかなりませんでした。「社会保障と税一体改革」も含め、政治家が率先垂範すること、また国家公務員給与を7.8%削減することで2年間に6千億円の財源を確保することなどを前提にして、復興関連では9兆円の負担を国民の皆様にお願いすることになりました。
(基礎自治体が競い合い、助け合いながら復旧復興を) 最後に、全国からのご支援のことをお伝えしておきます。全国から被災地にたくさんの方が応援に行きました。例えば大阪市は、市営交通があり、水道局があり、保健所もあります。大都市が持っている人材、あるいはノウハウを、対口支援と言うのですが、決まった相手先を支援する、これがほんと大事なんだなとしみじみ思いました。水道の技術者、道路整備の技術者、保健師さん、看護師さん、DMATのお医者さん、全国からたくさんの支援が集まり、疲れ切ったそれぞれの役場を応援してきました。
今後は1年、2年という長期間の支援になると思います。例えば吹田市役所の職員としてその身分を持ちながら被災地に行き、そこで2年間、新しい復興住宅の強度計算する1級建築士とか‥‥。地方自治法の252条17では、派遣された職員の毎月の給料は受け入れ自治体が、年金などの事業主負担は派遣自治体が負担することになっています。総務大臣に言って、ともかく応援をしっかりやって街づくりがしっかりできるように、2年間の給料は国で出そうと、そうすれば被災自治体が必要な人材を遠慮なく要請してくるのではと思っています。
今回は被災地で痛切に感じたのは、大事なのは基礎自治体だということでした。むしろ国と市町村がつながった方が被災者のための事業はスピーディーにできるということがあります。
例えば、楢葉町役場と町民が3月12日の夜から転々としながら、ようやく20日すぎに会津美里町という所に落ち着きました。その夜に町長さんが指示をして、持って出てきた消防車を全部、美里町に走らせてスピーカーで「楢葉から逃げてきました。美里町長さんにここに避難しろと言っていただきました。ついては余っている布団があれば提供していただきたい」と呼びかけました。避難した夜に押しかけた側が消防車を回して、布団を集めました。次に、ペットボトルを集め、湯を沸かして湯たんぽにしました。楢葉の人たちはやっと落ち着いた会津美里町で、その晩から布団で寝られた。翌日には学校の給食センターを開けてもらい、そこで炊き出しをしておにぎりに必ず温かいお汁をつけたと、これも町長さんのリーダーシップなのです。つまり、基礎自治体がどのように被災者と一緒に苦労してがんばるかというのが、これからの復旧復興の一番の力だと思っています。
岩手県では、初動からすごい努力をされていました。例えば生活支援体制で、被害を受けなかった内陸部の都市、盛岡市、北上市、遠野市、一関市が後方支援拠点になり、そこから人材も物資もどんどん沿岸部に持って行ったと、それが今も被災者交流拠点というような形で出来ています。もう1つ岩手がなぜうまくいったかというのは、「結い(ゆい)」という昔からの助け合い組織があります。それと、岩手県は集落ごとに仮設住宅に一緒に入ってもらう方針をとりました。バラバラではなしに顔見知りのまま仮設住宅に入って、そこに「結い」という助け合いが働いて、それに後方支援拠点からどんどん人材が来てということで、非常にすすんだ復興の状況があります。「仮設住宅が寒くないですか、何か心配ないですか」と、私たちが行くと、いろんな所でいろんな要望がでてきます。「二重窓にしてほしい。畳を敷いてほしい」とか、しかし、岩手ではほとんどの改良工事は終わっています。ですから岩手に行きますと、返ってくる言葉は、「仮設はあくまでも仮設なんだと。だから不自由でも仕方がない。そんなことよりも次にどういう街づくりをしていくのか、高台移転に国はどれだけ金を出してくれるのか、塩害でダメになった田んぼをどういうふうに買い取ってくれるのか」、ほんとに前向きにどんな街を作るのかが語られます。
そういう意味では、私はむしろ先進的な事例を紹介し合い、県を叱咤激励してでも、どんどん競ってもらって復旧復興に加速をつける、こういう形で努力をしていきたいと思っております。 今日は長時間、被災地に寄り添ってきた私の体験をご報告させていただき、ありがとうございました。
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No.2259
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