「政治家の妻として“政治に参加する”私の人生」



私は“愛”こそが命だと思っています。

そして、その愛の中にはいろんな種類があると思う
んです。子どもに与える無償の愛、計算高い愛もあ
る。しらってしまう愛もある。その中で無償の愛ほど
難しいものはない。

「私はこんなことしてあげたのに、あの人何もしてくれ
ないわ」そう思うのであれば始めから何もやらない方
がいいというのが私の考えなんです。「これだけやっ
てあげたのに、何も言ってくれない」「お礼もないのよ」。
それにもし不満に思うのであれば、それはやめましょう。

不満に思わず、自分からやってあげたことで向こうが喜ぶ。「その顔を見るだけで、幸せになるな」「自分も嬉しいな」そういう愛の与え方ができるように私も日々努力はいたしております。

子どもを育てる時はそうですね。どんなことがあっても子どもには無償の愛を与える。今でこそ幼児虐待が聞かれるようになりましたけれども、いずれにしても昔もあったかもしれない。

でも、テレビをつけたらそんなニュースばかりだと「これって一般的なことなんだな」と思っても不思議ではないような気になってきます。わからなくなってしまうんです。

もしかしたら、虐待をしているお父さん、お母さんにそういう経験があるから、子どもにも自分の時と同じようにどのように愛情を与えていいかわからなくなってしまう。

そうして、自分の子どもに同じことを繰り返していく。またその子が大きくなった時、親の愛情を知らないので虐待をしてしまう。そうやって順繰り順繰りになっていって、ちっとも改善されない。

それはやっぱり教育がおかしい。

今、いろんな所で叫ばれていますけど、教育で学校に責任を押し付けたりするのではなくて、私はやっぱり一番の原因は家の中にあると思っています。

そればかりじゃないかもしれないんですけど。

夫婦が仲良くしていれば、おのずと家の中は気持ちいい空気でずっと充満しているわけですよね。その中で育つ子どもは、落ち着いて育っていく。

この間NHKの「しゃべり版」っていう若い子たちがディスカッションする番組、ご存知の方いらっしゃるかわからないんですけど、それをたまたま見ていたんです。

その中で「おむすび美味しいよね」って。私はてっきりお母さんがつくったおむすびかと思ったら、コンビニのおむすびが美味しい、と。

それが悪いというわけではないのですが、「お母さんのおむすびより美味しいんです」と子どもに言われて、お母さんがっかりするんじゃないかなと思いました。

私は“時代”というところで片付けられないような問題だと思うんですよ。やはり食事をなくして、家の愛情が伝わるわけがないと。

たまたま私は料理をするのが好きなものですから、主人もそうですが、子どもには「何が食べたい?」と尋ねてすぐ作るんです。「え〜途中まで用意してたのにな」。そうじゃなくて、「わかった」と、作りかけのそれを置いておいて。

嫌々作ってたのでは身にもつかないんじゃないかと思うんです。やはり食べたいものをその時につくる。

「それじゃあ栄養にならないわ」と言うお母さんがいらっしゃるかもしれないんですけど、私は食べたいと思うものが身につくんじゃないかなという考え方なんです。

嫌々食べられたら体にが受け付けないんじゃないかなと思えてそのようにしているんです。

今家庭の愛情というものに、子どもが飢えているんではないかなと思います。

今こそ教育、親の教育なんです。親を教育することがひいては子どもにも影響を与えるわけですから。

そうして、ご主人が遅く帰って来た時「何してたの? こんな時間まで私待ってたのに」と言うもの一つですが、「どうもお疲れ様でしたね」と迎えるのも一つ。また「疲れたでしょ」と声をかけてあげるのもやり方。

愛情を影で「私は貴方のことこんなに思っているのよ」「こんなに一生懸命努力しているのよ」と押し付ける愛や縛ってしまう愛。…とても向けられる方はとても苦しいものなんですね。愛情をかける方も不満がたまっていくんですね。

ですから、そういう時には愛される者、愛する者に対して自由を与える。それは信頼関係があってできるものですけれども。

愛される側は自由が欲しいんですね。愛する方としては愛した人のために何かやりたい、認めてもらいたい。優しい言葉をかけてもらいたい。

ですから、愛情を与えてもらいたいと思ったら、相手より先にこっちからやる。

「うちの主人のなんて何も言ってくれない」と言うのではなくて、まずそれを自分からやっていく。そうすると「なんか最近うちの奥さん変わってきたな」と思ってくれる。そしたら向こうも変わってきます。

こちらから相手を変えようなんていったら、神様じゃありませんし、とてもじゃないけどできません。自分が変わっていく。その方が楽なんです。

男性の中に、「うちの女房は仏頂面ばかりして何もしてくれないんですよ」という方がいらっしゃる。それはご主人様の方が奥様に対して「ご苦労様だね」という労いの言葉一かけていらっしゃるか、少し考えてみてくださるとすごく夫婦の仲はニュートラルになって、新しい気持ちでスタートできるんじゃないかなとお話することがございますね。

結婚した時は、相手のことを思って遠慮もあったり、いたわったりしているんですけれども、結婚生活が長くなっていると、何でも当たり前になってしまう。“感謝”っていうものがなくなってくるんですね。

どんなことに対しても「ありがとう」。しかしそれが口だけでは駄目なんですよね。その一言によって、いろんなトーンでその人の気持ちがわかります。ですから言霊を大事にしたいと思っています。

子どもにもそうで、「ありがとう」と言ってあげると嬉しがるんです。好きなお母さんに誉められるのが一番嬉しいんですね。そうすると子どもも心を開いていろんなこと話してくれます。

子どもが小さい時に「お母さ〜ん」って学校から帰って来て、「ちょっとごめん。お母さん今忙しいの。後でね」なんて言う。子どもはその時に話したいのに「また後でね」なんて言われてしまう。そうしてそれが重なっていくと、お母さんの「後でね」は聞いてくれないんだなと思うようになる。「じゃあいいや、もう話さないでおこう」と。

これが中学になり高校になった頃、お母さんの手もちょっと余裕が出てきて「今日学校どうだった?」と尋ねた時に、「うるさい」「どうでもいいじゃないか」という返事が返ってくる。お母さんとしては話が聞きたいのに、聞けない。小さい時にお母さんのまいた種があったからですね。

だからといって、それは小さい時だけじゃないんです。大きくなってもやっぱりお父さん、お母さんにふっかけてもらいたいと子どもは思っています。暴走族とか、巷に集まっているような子ども…。そういう子ども達も実はお父さんとお母さんに愛情を与えられて心配してもらいたい。今日どこ行ってんのかなと気にしてもらいたい、というような気持ちからそのようになったと思うんです。

やはり愛情というのは、どんなに家の中で与えていくかが大事です。

息子が四つくらいの時です。私はその場にいなかったのですが、幼稚園の先生に、「先生の言っていることが昨日と今日違うじゃないか」と指摘したようなんです。園児の前で言われたことで、その先生のメンツが潰れたっていうんでしょうか。それで息子にいじめをしていたようなんです。でも、それは先生の愛情だったのかもしれません。

うちの子は体が大きいんです。しかし大きいけれどもやることがスローなんですね。私の性格とは全く反対。例えば、重い荷物が家に届いたら、息子や主人に「ちょっとこの重い荷物後ろに運んでくれる?」って頼むとすると、息子は「うん、わかった」と言って上にあがっていっちゃう。そうしてなかなか降りてこない。やってくれるのは1時間2時間後。私そういうのは嫌なんです。

私の場合は、例えばですけど、アイロンがけをやってても、誰かにお茶を頼まれたら、パッとアイロンがけをやめてお茶を入れて出す。人はその時にやって欲しいからお願いするわけなんですよね。私ははやってもらいたい時に相手にやってあげたいという気持ちがあるからそうするんですけど。しかし、息子はそうじゃなくて「じゃ、後でね」と言って自分のやりたいことやっちゃってる。「もういいわ」って私が持って上がる。結果的にはそれで腰を痛めたりすることがあります。しかし、何故か自分でやってしまうんです。一時間ほど経って息子が「ここに置いてあった荷物どうしたの? 僕がやろうと思っていたのに」と。「その時じゃなかったら、もうお母さんやってしまった」と言うと「お母さん友だちなくすよ」と言われてしまったんですけど。

とにかくそういう風に、その時その時を大事にしたいんです。

ちょっと話が横にずれてしまいました。

話を戻しますと、息子は登園拒否をするようになってしまったんです。それですぐに幼稚園変えました。

車で四十分ほどのもと行っていた幼稚園は、朝の七時くらいに家を出、食事は車に積んで、その中で食べさせる。そんな日々を送っていたら、新しい幼稚園の先生がすごい手紙、反省文というのでしょうか。そんなのを送ってきました。「悪かった。息子さんに大変申し訳ないことをした」と。で、私は息子に「先生はこういう風に努力していらっしゃるよ。貴方どうする? 努力してみる?」と尋ね、それで一緒に幼稚園行きました。

先生はシスターなんです。黒いマントをなびかせながら「よく来たわね」と走って来てくださったんですけど、息子は私の後ろに隠れて泣いているんです。そこで私は先生に「連れて帰ります」と言いました。すると先生は「お母様が見えなくなったら泣き止みますから置いて行ってください。大丈夫ですから任せてください」と。

私は理由がわかっているので、やっぱり連れて帰りますと言ったんです。そしたら、その時側にいたご父兄が「もう、溺愛なんだから」と馬鹿にしたような、「あんな甘やかしちゃって」という声が聞こえてきました。

でも私は子どもの心、理由を知っていましたし、ですから何を言われてもいいと思っていたので、結局連れて帰りました。

時が経って、息子は「あの時お母さんが連れて帰らなかったら今の僕はいない」って口にするくらいに、彼の中では幼稚園たかが4歳、5歳ですけれども、とても大きな出来事だったようです。

そうして小学校に入り、息子はやはり体が大きいのにやることがスローなので、私はそれがとても気に入らなかったんです。「早くやんなさいよ」「早く寝なさいよ」と、何でも早く早く…。側で主人が「そんな早く早くって言わなくたって大丈夫だよ」とずっと言っていたんですけど、私は当時自分の考えが絶対正しいと思っている嫌な女だったもので、私の言う通りにしたら絶対間違いないわなんて思っていたんですね。

子どもが小学校2年になった時に、様子がちょっと違うなと思うようになり、そこでいろんな本を読むようになりました。息子がそんなにスローなのは丁寧に物事をやっているから、だからこんなに時間がかかるんだな、ということがだんだんわかってきたんです。いろんな見方があるということを私はいろんな本で学びました。

ですけど、「今日帰ったらこうやろう、ああやろう」と思うんですけど、家に帰って30分くらいしたらコロっと忘れちゃって「早くしなさい」なんてまた言ってしまうんですよ。

しかしそれなりに、だんだんと身についてきたというのか、癖になって、子どもが小学校の五、六年になった時には、主人に「君、最近変わったね」と言われるまでになりました。その言葉はとても嬉しいものでした。認めてもらったんだということが、とても嬉しかったんです。私はその考え方を持ち続けて今もいるんです。

どんなことがあっても偶然はないと思っていて、偶然じゃなくて必然だと考える。皆様も偶然今の方と結婚なさったと思っているかもしれませんけど、それは大事な大事な人生に組み込まれたヒトコマなんです。

子どももそうなんですよね。子どもは親を選んでこの地に生まれてきている。私は宗教論者ではありませんが、人間というのは何回も生まれ変わりをしていると考える方が楽しい。

だけど、何でもかんでも楽しいワイワイ言ってるんではなくて、考え方の根本は、お腹の中に持っていて、その中で揺れ動く。

どなたもそうですけど、私は生身の人間で、揺れた時に「私にはこういう役目があったんだ」「ここにこうやって生かされてる」。こんな大変な大変な21世紀に日本の国にいるということは、自分にも役目がある。どんな役目かは皆様はきっとおわかりだと思うんです。家をしっかり守ることがお役目の方もいらっしゃれば、お仕事がなさる方もそう。いろんな多方面でご活躍の方もいらっしゃるかと思うんですけど、皆役目があるんですね。そういう風に思えば毎日だらっと生きている、そんな必要はありません。もったいないと思うようになる。

ですから今の自分の役目何だろうなと考えてみましょう。「そんなこと考えたことないわ」とおっしゃる方もいるかもしれないんですけど、ただここに生きているだけでもそれは素晴らしいことなんですよ。健康であるということですから。

そしてそれはどうしてあるのか。いつも家の中で幸せにしていらっしゃれば健康な体にいられるわけですよね。だからといって、病気が悪いというわけでもない。

例えば病気になった。私が考えるには「長い間ご苦労様でした」「どうぞお休みください」「少し貴方も休憩した方がいい」と。それで風邪の時もですが、ひいた時はもう終わってるんですね。今までの悪いものが全部出ちゃってるから。だから、そこでゼロになってスタートなんです。ひいちゃったんじゃなくて、もう終わっちゃった。疲れたものは出しちゃった。 

そう考えてみる方が楽しいと私はそういう風に信じているんです。

病気になった時は、自分が今までやってきたこと振り返って、考えてみるいい機会だと思います。「あの人のお陰でこんなになっちゃったわ」なんて、そんな風にいつも人のせいにしてきたんじゃないかなとちょっと考えてみる。「あの時こんなこと言っちゃったけど、気分悪くしただろうな」と。考える時間を与えられたんだな、と思ってみるとまた元気が出てくるし、そしてはつらつと毎日が楽しくなっていくと思うんです。




    



 鳩 山 幸 ト ー ク シ ョ ー    (2001.12.09)  (大阪・全日空ホテルにて)