大津波被害の南タイを視察   (2005/03/19〜21)   (写真部をクリックすると拡大します。)
  

予定通りタイ時間午前6時少し前にプーケット空港に到着、迎えに来てくれたバスに乗ってカオラック・メルリン・リゾートに向かい、SVAタイ事務所の小林寛明さん、シーカーアジア財団のアルニー事務局長さんと合流する。
朝食をとった後、ホテル内に常駐し、引き続き復旧支援に当たっているタイ国軍の連絡所に行ってみて写真などで被災状況を見る。パンカー県の死者4,224人(国全体5,395人)、負傷者5,597人(同8,457人)、行方不明者1,762人(同2,995人)と各県の一覧表が張ってある。これでも実態よりは少ない数字だと言う。

(高級リゾートが更地に)
9時半ごろ視察に出発、バスで数分のカオラックの高級リゾート地であった所に最初にバスを止め、小林さんの案内で海岸線まで歩いて被災状況を確かめる。
倒壊しなかった建物で改修に入っているリゾートもあるが、ほとんどが更地になっており、どこに道がありどのようなホテルがたっていたかもわからない状況。被災直後は死臭が漂い、一面、瓦礫であったというが、タイ政府は12月28日の段階で重機を持ち込み復旧に手を付けていたとのこと。国にとって観光地の復旧が最優先だったことがわかる。

         
          
   崩壊したリゾート

国道4号線を北上すると海と反対側にPOLICEと船体に記した船が打ち上げられている。日本でなら海上保安庁の船だろう。津波の威力が良くわかる。カオラックでは、6〜7mの津波で建物の2階を越え3階近くまで波が来たそうだから、大きな船が流されたことも想像できる。

(復興の槌音)
午前10時過ぎに1,000人以上の遺体が安置されたという空地、続いて、モーゲン(少数民族で水上生活者)の恒久住宅を建設している場所を視察。住民登録も関係なく40年以上住み付いてきた場所、協同組合を作って寄付や政府・行政の資金も使って建設中だが、企画は政府の「社会開発・国民の安全保障省」が行っている。夏休みで学生のボランティアがたくさん働いていたが、基礎が盛土の上に直接だったり、木材の骨組みが細くて大丈夫かと思ってしまう。

         
             
モーゲンの恒久住宅建設

移動して10時半過ぎに「ヴァンサック村小学校」、流失し国王が別の場所に新しい学校の建設を決定し進められているとのことだった。王室には財産管理局があって、国王が最も金持ち、社会貢献にどんどん使っているという話もお聞きした。救援物資は大津波直後2・3日目から豊富に届いた。水・カップヌードルや日用品など。しかし、2ヶ月を過ぎると炊き出しなどもなくなっているとのことだった。

(村の8割が壊滅)
次に8割が壊滅したというナムケン村に向かう。まず、一時はここも1,000人以上の遺体を安置したバーンムアン寺に行く。無造作に棺おけがまだ残っている。
境内に安置されていたが、腐敗と死臭が激しく、冷凍コンテナに移し、その後、DNA鑑定のために身体の一部だけを残して荼毘にふされたそうだ。外に仏様を祭ったところがあり、全員で線香をあげる。

         
             
放置された棺おけ

合同慰霊祭などの写真や外国からの遺族の便りが掲示されているところがあったが、ボードの裏側には犠牲者を確認するための生々しい写真がまだ残っていた。

11時20分ごろにナムケン村に着く。5,000人の村だがビルマ人が同じく5,000人ほど居住していて、被害の全貌はわからないという。歩いて被害を見て廻る。海岸がまだ見えないところに大きな船が民家の屋根にぶつかる形で打ち上げられている。どこから来たのか不思議な感じ。

         
           
ナムケン村の打ち上げられた船

漁港まで行くと岸壁が壊れてコンクリートの骨組みだけになっている。対岸のコカオ島まで小さなフェリーが就航しているが、津波の前には潮が引いて20分ほど陸続きになり、その後津波が押し寄せたそうだ。港近くの3階建ての民家に逃げ込んで2階と3階で200人ほどが難を逃れたと言うが、見てみると大邸宅でもなく大変な状況が眼に浮かぶ。

ナムケン小・中学校にも寄るが、1階は津波のため使えない、200人あまりの子どもたちは2階以上で授業を受けており、校庭だったのか、校舎の近くに「ワールドビジョンタイランド」「ケアタイランド」「赤十字」などの手によって仮設住宅が建てられていた。

         
           
ナムケン小中学校の仮設住宅


SVAは被災直後に児童に制服や学用品を配って廻った。内部で賛否もあったらしいが、結果的にはこれにより信頼関係ができて、その後の「仮設図書館」づくりや運営がスムースに進んだと聞いた。小学校を出発して昼食場所へ。

(犠牲者の写真、生々しく)
午後は遺体の安置所になったヤンヤオ寺へ、もう親族を探しに来る人もいないのだろうが、減ったとはいえ、直後のままにボードに被害者の写真が貼ってあり、今でも担当者がおりパソコンなども置いてあって問い合わせに対応できる様だ。見て廻るが、一人ひとり損傷が激しくこの写真で身内を見分けることも困難だと感じるし、何よりも、一枚一枚確かめなければならない家族の気持ちは如何ばかりだろう。

次はタプタワンの仮設住宅、午後3時前に到着する。ベニヤとトタンぶきの長屋の仮設が続き、広場では柱を立てロープを張ったところにタイ国軍の兵士がハンガーに吊るした衣服を大量に並べていく。古着かも知れないがきれいに洗濯されアイロンが当っているようだ。サイズと柄を見て皆が自分や家族の分を貰っていく。日用品は不足していないようだ。

 
    タプタワンの仮設住宅         軍が持ち込んだ衣服

(移動図書館車)
テントの中では、SVAのラオススタッフが20数時間かけて車の移動図書館で駆けつけており、ギターや太鼓に合わせて歌を唄っている。移動図書館を始める前の"客寄せのイベント"らしい。フォードとトヨタの改造車で中に一杯本が積んである。トヨタ車は「基幹労連」とドアのところにペインティングされており、日本の民間労組からの寄付だ。仮設住宅の人達には、葬祭料2万バーツ、月額の生活扶助2,000バーツが支給されていると聞いた。ここで現地の日本人スタッフ田村奈津子さんが合流する。

         
             
移動図書館車

(仮設図書館活動)
午後3時半過ぎにもうひとつのバーンムアン避難所を訪れる。最大のときには3,700人、現在でも2,800人ほどが暮らしているということだ。その一角で「仮設図書館」が開設されている。津波のトラウマに傷ついた子どもたちの心を癒すため、ゲームや遊びのプログラムが続けられており、表面的には皆元気に笑顔でリーダーと声を合わせて歌ったり、踊りの練習をしたりしている。ここで、マイペンライ大阪から1年間タイ事務所に研修に来ている松尾久美さんとも合流、大阪から用意してきた絵本などお土産を子ども達に渡す。敷地内では、職業訓練と資金調達をかねて、布かばんづくり、さおり織、ろうけつ染めなども行われていた。

         
             
説明を聞く訪タイ団

一時間ほど交流し、クラブリー郡の今日の宿泊地に移動。午後5時半過ぎにリゾートに到着した。10ヶ所ほどの視察が続き、皆疲れ気味だったが、6時半からの夕食では遅くまで意見交換と懇親が続いた。(3月19日)


(視察第2日)
7時から朝食、8時半に宿泊したクラブリーグリーンビューリゾートをチェックアウトしてバスで出発する。パンカー県最北のクラブリー港にある仮設住宅と仮設図書館を視察する。

(見えてきた貧困・少数民族問題・出稼ぎ問題)
小島にある170戸の水上生活を中心にした家が壊滅し、漁業や養殖で生計を立てていた人達が130戸の仮設住宅に入っている。敷地のすぐ近くには入り江で被害の無かった水上生活者、ビルマからの出稼ぎ家族(約60家族)も住んでいて、子どもは学校に通っておらず、教育問題では津波と関係なく問題を持つところ。

SVAが仮設住宅建設直後から一室で図書館を開設しており、ビルマの子供たちを含めて図書館業務にとどまらず、工夫を凝らしながらタイ語の識字活動など頑張っていた。南タイでの活動はこれまで無かった様だが、津波を契機にラオスやバンコクで積み重ねてきたスラム対策などのノウハウを展開している。「剣玉」「コマ」「ボール」「バトミントン」や学用品をお土産に渡す。

 
    建設された避難所図書館     (現在の)仮設の一室の図書館
    (もうすぐ開設)


 
    
子どもたち                コマ回しを教える

次にサマーキーダム寺を訪れる。境内にテント村が出来ている。30家族ほどの仮設住宅もあるのだが、地震=津波の恐怖心を持つ人達が地震後も戻ってきて110張りほどのテント生活を続けているとのことだった。ここでもSVAの「ラオス隊」が子供たちを集めてゲームやスライド上映などをしていた。取り巻く大人も多く、津波の直接被害が癒えたとしても、タイ国内の貧富の差、社会保障制度や教育問題など横たわる問題は多く、長期的なプログラムになると感じられた。

         
             
サマーキーダム寺のテント村

11時前にパンガー県の視察を終了し、バスでプーケット空港へ、途中の国道沿いのレストランで昼食をとり、午後2時半ごろ空港到着。4時過ぎのタイ航空機でバンコクに向かう。夕食は、市内の中華料理店でSVAタイ・ラオス事務所長八木沢克昌さんとご一緒し意見交換、明日はバンコク市内での施設見学になる。(3月20日)

(タイの保育所とSVAの活動)
視察3日目、午前9時にバンコク市内の公立保育園を訪問し、地域での移動図書館活動の視察。タイの場合、当初から公立の保育園が設置されるのではなく、地域のニーズに応じて母親たちが共同で保育園を始め、NGOが手伝い、その後、行政が人件費などを援助することになっている。月極めの保育料もあるが、多くは一日10バーツで午前7時ごろから午後3時頃まで子どもを預けにくる。

そこにSVAの移動図書館がスタッフ3人一組になって車で訪問する。年間約230回保育所を廻り、午後はスラムの中、高速道路の高架下や公園にも廻るとのことだった。しかし同じ保育所に再々訪問することが出来ないため、60冊の絵本が入った図書袋を3ヶ月ごとに交換。「ビッグブック」を使った読み聞かし、人形劇やゲームなどはSVAのスタッフが蓄積したノウハウであり、時に保育内容について保母さんと研修会を行っているとのことだった。

政府からは他の事業を含めて年間70万バーツ(210万円)の援助や、石油会社と交渉して4万バーツ分のガソリンが提供されているが、移動図書館を増やしたいと思っても、車の購入だけでなくランニングコスト、とりわけ新しく採用するスタッフの人件費や保母さんとの研修費用などがままならないとおっしゃっていた。

移動図書館活動は、SVAがインドシナ難民支援のときからの原点であり、対象が山岳民族、少数民族、スラムの最貧層、そして今回の津波支援と拡大しても、自立に向けた子どもの教育・文化活動は最も重視されてきた事業だと教えていただいた。

         
             移動図書館車

(タイのスラム)
次に、昨年4月に不審火で全体が焼失してしまったスアンプルースラムに向かう。火事になるまでは、(住民)登録した家族が750〜800世帯、全体で7,500人が住んでいた。火事が全国的に報じられて注目され、政府も近代的に再開発(例えばビルやマンションの建設)することはあきらめ、引き続いて住んで良いと約束した。しかし、公団住宅を建ててそこに入居することを希望する人達と、自分たちでスラムを再生することを主張する人達に分裂した。約1年を要したが、半分ずつにすることになった。公団住宅は一部屋約36u、ブルドーザーによる整地が始まっていた。

私達が会ったのはスラム再生派のリーダーで、330世帯が協同組合を結成し、町並みの基本設計とモデル住宅の種類、14万7千バーツ〜31万1千バーツの図面や模型が出来ていた。行政指導もあり、一方に12mの空地を取り、中の道幅は4m、家の軒と軒の間は3m空けることになっているそうだ。協同組合を通じて政府から25年ローンで融資を受けて建設するそうで、長屋で15ユニットが建設されることになる。ただ公団住宅の完成を待っているよりは、結束力も強く、瓦礫の片づけを含め様々なワークショップを積み重ねているとのことだった。

一部焼け残ったSVAの保育所に寄ると、壁面に日本の援助で建設された銘盤が残っていた。小渕外相当時らしいが、
「Grant Assistance For Grassroots Project」とあった。

(SVAタイ事務所でのワークショップ)
昼食をはさんで、今度は「SVAタイ事務所」「シーカーアジア財団」「ドゥアンプラティープ財団」があるクロントーイスラムに向かった。12地区に分かれ10万人が住んでいる。それぞれの地区に運営委員会(自治会の様なもの)があり、住んでいる人は近くの港湾荷役、タクシードライバー、自宅前での物売り、日雇い労働者など様々で、昔に比べればきれいになったと言われている。スラムを見学した後、SVAタイ事務所で八木沢所長や3日間親身に世話していただいた小林さん、アルニーさん、田村さんをはじめ事務所の人々と2時間近く意見交換した。

津波被災に関連して3年間を目途に事業を考えており、仮設住宅における図書館の増設、将来的には地域への移管、子どもたちへの奨学金給付なども考えているとのことだった。津波被害を通じて見えてきたこと、貧困・少数民族問題・出稼ぎなどに向かい合いながら、南タイでの活動を定着させたいとのことだった。

八木沢さんからは「25年前のカンボジア難民問題、10年前の阪神大震災でも同じだったが、緊急支援の数日間は衣・食で生命をつなぐこと、3日間から1週間後は仮住まいのこと、それが一旦落ち着いたときに、財産や家族を失った絶望感が押し寄せる。心のケアが必要な時期、どうしたら良いかわからなくなっている時、大人を勇気づけるのは子どもたちの笑顔と笑い声であり、そのために移動図書館は威力を発揮してきた。SVAの活動の原点はここにある。」とおっしゃったが、とても重みのある言葉だった。モノ、モノ、モノの支援には限界があり、戦後日本の復興に寄与した将来の自立につながる教育こそ大事だと受け止めた。何が出来るのか、日本に帰って皆とも相談し継続的な支援を考えて行きたい。

         
             SVA事務所にて

(プラティープ財団との交流)
4時過ぎから近くのドゥアンプラティープ財団を訪ねた。上院議員のプラティープさんに出迎えられた。特に、今回視察を一緒した「マイペンライ大阪」の人達は日本での研修受け入れなどで長い期間相互の人的交流があり、温かく迎えていただいた。会議室で挨拶の後、私がこのタイ視察で感じたこと、日本における政治状況などを交えて簡単なプレゼンテーションを行い、参加者とともに短い時間だったがミーティングを行った。

私が日本と世界の平和を確実なものにするには、日米の二国間同盟よりもアジアの人々・国々との信頼関係を強くしていかなければならない、そのために日本がすべきことが多くあると強調すると、プラティープさんも「同感だ。最初は人と人、そして国と国、これが世界中に広がり、その強さが争いの10倍ぐらいになれば巻きれことも無い。」とおっしゃった。

また、彼女が「国連ボランティア信託基金」のアジア代表委員に就任され、人身売買・現代奴隷制に関する課題について優れたプロジェクトを50件選定することになるので、日本においてもインドネシアやインドにおける現地の支援団体に対する助力を要請された。

もっと交流を続けたかったが、バンコクにもう一泊するマイペンライの人達と別れて、私と大塚秘書はマレーシアに移動すべく空港へ向かうことになった。短くとも充実した、そして少しハードな3日間の視察だった。帰国すれば、もう少し時間をかけて視察の経過をまとめてみたい。(3月21日)






3日間お世話になった
SVAの小林さん、アルニーさん






カオラックの高級リゾート跡


国道4号線を越えて流された船




完成予想模型









バーンムアン寺


犠牲者の写真を貼ったボード



ナムケン村の打ち上げられた船


崩れた岸壁
















犠牲者の写真













ラオスから駆けつけた
移動図書館スタッフ











バーンムアン避難所の図書館活動














クラブリー港の仮設

























サマーキーダム寺の移動図書館













バンコク市内の保育所








移動図書館車




スアンプルースラム


SVAの保育所



スラムの再建計画


子どもたちによる歓迎の踊り






出迎えの上院議員プラティープさん



会議室でのミーティング

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 い な み の ひ と こ と