サンポード外観

【稲見】山川社長は、第七芸術劇場など、ご本人が
映画・芸術を通じて文化活動などにこれまで取り組
んでこられました。

十三の栄町商店街の中においては、サンポードは
ひとつの拠点になっております。

これまで取り組んでこられたの山川社長のいろんな
活動と、今十三で感じておられること、それと
look for Juso」(携帯電話を利用した十三の情報
サイト)など、これからの活動も企画をされておりま
すので、その辺今日は率直なお話をきかせていただきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

 “映画館の子”として

最初に私の生い立ちなどをご紹介して、次に十三の街との関係などをお話させていただいたら分かりやすいかと思います。

 私は昭和13年、戦前の生まれで、国民学校の最終年齢です。入った時は修身がありました。天皇陛下の御影を拝礼して何もかも始まるというのが小学校だったのです。

小学校へ4月入学してすぐ、学校は日本の軍隊が接収し、我々は地域の広い家の中でそれぞれ勉強しました。

戦争はそんな形で終わったのですが、私の父は昭和18年に戦死をしておりますから、私は祖母や母の手で育てられたひ弱な子どもでした。

 そして私の祖父は、もともと滋賀県の五個荘という、商人の巣と言われているような町に生まれました。

あの町は不思議なことに、大阪と地元、あるいは地元と東京、というように2軒店を持ち、地元の方は奥さんが、主人は大阪とか東京とか、船場とか…。繊維がほとんどでしたので。自分の家を本社にし、店は東京なり大阪に出すのが普通でした。

 私どもも同じように船場に店がありました。

絹問屋で、祖父や次男が船場で勤めていたのです。

祖父はもともと気性のちょっと変った男だったようで、弟にその家督を譲り、千日前に掛け小屋のようなものを買ったのが、映画が家業の始まりでした。

本来は繊維業だったですが、祖父がそのような形で家を飛び出して千日前に活動写真の小屋を買ったのが明治42年。それを創業の年にしていますから、1909年から私どもの社歴が始まっています。

 時代は活動写真初期の動乱期で、製作する、上映するという境目のないような時代であったようです。

そんなことから、撮影所を建てて映画を配給する。そして劇場で上映する。祖父は最終的に映画を製作する会社として、「帝国シネマ」を創りました。全国に劇場を契約館を持ち、配給会社を持つ。

そんな現在の映画産業の基本をつくった時期でございました。

 しかしある日、立派な東洋一の撮影所…今でも布施(長瀬)に行きますとその跡地があるのですが、そのような立派なものも建てたのですが、わずか2年にして火事で全焼してしまいました。そして会社もおかしくなってしまい、その中で松竹に吸収されていったという歴史があります。

 その後は、直営館の一部を使って父は映画館を経営していました。当時、たまたま十三に直営館、自分の持ち館がありまた。

しかし、昭和16年に召集され、18年に戦死してしまいまいた。

そこで祖母が自分の身内と共に映画館を経営していたのです。

 各地にあった映画館のある所というのは繁華街で、しかしほとんど全焼してしまいました。

 戦後は全部土地だけ残りまして十三の所だけをまず建設したというのが、この十三とこの私との関わりあいです。

特に十三というわけではなかったのですが、たまたま十三に直営館があったこと。そしてそこは完全に自分の持ち小屋であったということから十三に縁ができました。

以後、昭和22年に木造で再建して今日に至っているんです。

 私は小学校、中学校は地元の中学校を出、高校は西宮(兵庫県)の関学の高等部に行って、そのまま大学を出たんです。

ほとんど土日はこちら(十三)に来ておりました。

当時、映画館というのは非常に繁盛しており、売店の手伝いだけでも、子どもですら役に立つんです。みかんを詰めたり、ジュースを売店の所へ運んだり…そんなことを手伝いながら、映画を観ながら育ったというのが、自分の若い頃の時代です。

 ちょうど私が十三の街へ頻繁に来ておりましたのは、高等学校の頃です。

高等学校の時は家が堺の浜寺ですから、家から西宮の甲東園まで1時間半くらいかかるんです。

 帰りは家に直行する気が全然ございませんで、必ず十三で降りて映画館で映画を観ていました。

友だちから非常に羨ましがられたんですけれども、「羨ましいんだったら一緒についておいで」なんて言って、よく友だちを連れて十三で降りて映画を観、近所でうどんやそば食いながら家に夜帰るというのが高等学校の日課でございました。

それなりに当時は周辺に7館も映画館があったものですから、ほとんど映画をタダで観る。招待券もいらない。

私は子どもの頃から“映画館の子”ということで、顔だけで「ごめん」と言ってお互いに入ったものです。

当時、淀川区は東淀川区と言っておりまして、分区する前でございましたので、その地域に33館、映画館があったんです。

十三はこの地域に映画館が7館ございまして、私どものところは2館持っておりました。

 私どものところは(サンポードシティにある第七芸術劇場)、現在はこれは常設館ではございませんし、東映さんのところは1館を2館にしきられたということで、昔からいったら1館、それから淡路にございますから、正味3館くらいしかないんです。

それほど映画館の経営というのは、難しい状況です。

 私は少年時代、青年時代を映画と共に生活をしてきました。

決して思い入れじゃなしに、それしか知らなかったんです。

 映画産業の衰退

ところが、卒業する前ぐらいから映画というのは、どんどん斜陽化してまいりまいた。

私が卒業したのは昭和36年ですから、昭和34年に皇太子殿下のご成婚があって、非常にテレビが一斉に普及しだしまして、特に昭和39年の東京オリンピック、これが映画館とテレビの本当の対決という時期があったと思うんです。

 40年に入ってどんどん映画会社が倒産する…大映が倒産し、日活が倒産し、新東宝という配給会社まで消滅してしまいまいた。

 映画自体の産業というのは、壊滅的な状況になっていきました。そんな中でどうしても映画だけでは頼りにならないということで、昭和39年にゆかりの人と共に手馴れぬパチンコ業を始めたのです。劇場の跡を使ってパチンコを始めたんです。現在パチンコ店は4店持っていますが、生活道具というような形です。

 その後、ボーリングブームを迎え、ボーリング場をつくりました。

 自分の事業においては、一生映画館の経営者でいられると思っていたのが、もう卒業前に自分は映画館で食っていけないという、非常に暗い卒業を迎えたものですから、なかなか一本調子で自分の生涯終わらないなということを痛感したわけです。

 そこから多角の経営の考え方というのが、自分の中に据わってきているのではないかと思います。

しかし今から振り返ってみて、多角はやったはいいけど、非常にロスが高くて、それに苦しめられているというのが現状でございます。

私と十三というのはそんな関係で、十三自体が自分にとっては生活の場になっていました。

果たして自分は十三で生まれたんとちがうかなと思うくらい、十三の人間に現在はなりきっているんじゃないかと思っています。

 それだけ十三の街には人一倍愛着があります。

この街が発展する衰退するのが自分の運命の様な形になっていまして、何とか街が発展して欲しいなと、あるいは発展さすべきだという強い信念みたいなもの、執着みたいなものがあります。

 確かにその頃の映画というのは面白くて、よく出来ていると思うんです。

今日本映画というのは、“日本映画”といえるものがほとんどない。日本映画つくっている会社どこかなと考えてしまうほど、日本映画産業はダメなんですね。

私の想いの中には日本映画というものをもっとしっかりつくって欲しいなと。

 監督とかプロデューサーと自らお金を集め、自分でスタッフを集め、撮影所をつくり自分で上映館を探す、それら全て一人でおやりになっている。製作・配給・興業という3つを備えているのは、かろうじて東映さんだけです。

日本映画は、産業として崩壊しているというのが現状だと思います。

 映画に対する私の不満は、日本において映画の位置が非常に低すぎることにあります。

 日本のフィルムセンター、国立美術館なんですかね…それの附属機関なんですよ。今フィルムを一生懸命買っておられますけれども、絵の内容が何であろうと、1メートルいくらで買っておられる。映画の内容というのは評価しないんです。メートルで買う。

 だから買いやすいけれども個人がつくったような、あるいはそういうグループがつくったような優秀な作品は、とてもメートルで評価されるような所には持っていきたくないので行ってないんですね。

 EARTH」は優秀映画賞というものをいただきました。賞金が100万円でした。その賞金の中から30万円をかけてプリントを焼き、国立美術センターに1本差し上げていまので、「EARTH」は保存されていますが…。

 そんなんで、日本の映画の位置付けというのは先進国でありながら非常に低い。

今だにピンク映画でも何でもいいから1メートルなんぼで買っているというようなところには、やはり本気でいい映画をつくろうという気が生まれてこないんだと思います。

国も自治体も、また個人も皆で、映画というものの位置付けと価値を高めていきたいと私個人では思っています。


十三という街の歴史

さて十三のことなのですが、十三の街というのは、私には自分の街のようなもので、近所の子ども達と一緒に少年時代送ったものですから、自分が神津小学校出たような、あるいは新北野中学校出たような錯覚になってしまうんです。「オマエ同窓生じゃなかったな」と逆に言われるぐらいで。それくらい十三の街に慣れ親しんでいるわけなんです。

 戦前の十三の街というのは、大阪ではカフェが軒を並べてあったという、3大か4大カフェの街のひとつだったようなんですが、今、その面影は全くございません。非常に大阪で有名なカフェもいろいろ十三にあったようなんですが、私にもその頃はよくわかりません。

 ただ十三の街というのは全焼しましたから、十三の駅前に闇市ができてちょうど今三和銀行が建っているあの辺りは闇市がずーっと立ち並んでいました。それは子どもの頃に覚えています。

十三はほとんど焼けたんですが、三津屋から田川の方へ行くと戦前の家が沢山残っております。そういうわけで、この辺りが自然と繁華街になっていったというのはよくわかるんです。

並の繁華街ではなかったかなと思います。

昭和30何年くらいだったかですね、ちょうど私の方(サンポードシティ)の隣に「魚亭」という料理屋さんがあったんですけど、その経営者が「ふうりゅう」というキャバレーを初めておつくりになったのが、“十三のねえちゃん”の始まりだったかと思います。

 それから千里丘陵に万博の工事が始まりまして、十三は万博ブームで湧きました。

地下鉄が延伸されました。

北大阪の繁華街というのは十三しかなかったものですから、十三の歓楽街へニッカーボッカはいた連中が直足袋そのままふうりゅうの店で陣取って、当時我々にとって本当に憧れの「ジョニーウオッカー」の黒ボトルをパーッとテーブルに並べてあおってたというのを横目で見ながら、エライ景気いいなあと…。

 昭和44年頃というのは、もう最高に十三の繁華街が湧いた時期なんじゃないかと思います。

その頃にキャバレーも沢山できました。

藤田まことさんという役者を使って斉藤まことさんが作詞作曲された「十三のねえちゃん」がなぜか全国ヒットしました。十三というと「ああねえちゃんの街や」というように街のイメージが定着してしまった。当時、“十三の姉ちゃん”というイメージがこの街にあまりにもピッタリ合ったというか…。あの歌の歌詞を普通に読んでみますと、本当に別に何でもない歌詞なんですけれども、やっぱりチャルメラのラーメンのあの“姉ちゃん”というところが哀愁のようなものがあります。

 一つの街があの歌であれほど有名になったというのはちょっと珍しいんじゃないかと思いますね。たった一つの流行歌に街のイメージが定着したというのはちょっと珍しい。

 それだけに十三っていうのは“ねえちゃんの街”と言われているんですが、現在十三のねえちゃんもほとんどいないですね。残念ながら。

 当時のホステス、“ねえちゃん”といわれるような、生活と闘いながらも気がいの持ったねえちゃんというのはいないというか、そういう店がない。もう過去の語り草になってしまいました。

そこで十三の街というのは、一体、次にどんな特徴があるんだろうか、というところに皆、頭を痛めているのです。

十三というのは下町なんですが、住んでいる方を見ると決して下町ではないんですね。中流以上のインテリジェンスの方が沢山お住みになっていますし、この街と住んでいる人があまりピッタリ合っていないという気がすごくするんです。

 それではこの街はなんで栄えたか…やはり日本の二次産業が昭和30年くらいから復興し出したことにあると思います。この周辺は鉄鋼を中心にした工場が三津屋、加島、田川というような、要するに北大阪の工業地帯として発展しているわけです。町工場ですから一体となって経営者もそこで勤めている人も共に汗を流して働く。そして4時になったらさっと切り上げて経営者と一緒に従業員さんも一緒に遊びに出る。これが十三の街のアフターファイブで、そういう店が非常に栄えた。

そしてそこに万博ブームが来た。

 そして十三のねえちゃんという、要するに一つの歌によって全国的に街が有名になった。ここまでは非常に順調に発展してきたんですね。

ところが、私も宴会の営業に回りますけれども、工場へ行ったってほとんど人がいないんです。前ここに大きな工場があったはずやというのがマンションになってたり。まあ、人口がそんなに変らないのはそこに人が住むようになったからだと思うんですけれども工場というのはほとんど人がいない。だから十三の街へ遊びに来ないし、そんなことで繁華街が冷えているのではないかと。その辺が十三の街の今非常に問題だと思いますね。

 誰が今十三の街へ遊びに来るのか、今まではそれがはっきり見えていたんですけれども、この頃は見えなくなった。


街としての商品価値

 街の人は十三の街…、例えば私たちの栄町の道を通って帰るのが嫌だ、いろんな人に声をかけられて不愉快やとか、そんな気持ちで商店街の方を歩いて帰る…。

この道が道でないというところ、それは私が一番悩んでいることなんです。栄町というのは立派な道なんですが、通りたくないというのは道じゃないんですよね。だから道を道として、地元の人から思ってもらえない所で私は商いをしていることについて、非常に悩んでいるわけなんです。

 街のあり方というのがいい悪いは別として、昭和50年くらいまでははっきりしていたんです。ところが50年以降、その街というのが、誰がこの街に親しめるかということ、その辺が非常にあいまいになってきている。今までお客さんといわれていた工場地帯が工場地帯でなくなってきている。

 それから住居されている方々は結構民度の高い地域ですから、あまり十三の街自体でファミリーとして遊ぶには適当でない。梅田へ150円で行けるのですから、しかも5分もかからずに行けるのですから、それじゃあ梅田へ出ようかと。

あまりにも繁華街に近すぎることもあって、なぜ十三の街に来るかというはっきりとした目的がつかめない。お客が見えてこないのが今の状況だと思うんです。

 数多くあったキャバレーがどんどんなくなっていく。私どもでも、大箱といわれるキャバレーを経営していたんですが、去年の9月に閉鎖しました。

 西栄街といって、「がんこ」さんから西の方が西栄町というんですけれども、その辺り夜の9時頃行くともう50メートル歩く間に何人に声かけられるかなというぐらいに、チラシを持ったり腕をひっぱったりされるわけですね。

 これは地域が限定されていますけれども、ぼったくり条例というのがございますね。あれがミナミとキタに6月から施行されるんです。

そこで十三もその地域にして欲しいと、栄町の役員として淀川警察署長に4日ほど前、面会を求めていろいろ説明をしたんですが、なかなか条例の指定地域になるのは難しいというようなことをおっしゃっていました。

 ところが現実の問題として、ホストクラブというのが十三に2件くらいあるんですが、黒いスーツを着たそこの人間が、ヒマになってくると客引きに十三の交差点までぞろぞろと出てきて、帰りがけの女の子に声をかけるんです。それも誰にでも声をかけるわけなんですよね。

 我々だって別に容認しているわけではないのですが、警察署と相談していますが「なんかあったら飛んで行きますから」と。

なんかあるというのも我々判断するのは非常に難しい。

実際迷惑防止条例にかかるのは、迷惑された方が警察に直訴する、そして初めて動けるらしいんです。

 それでも商店街として、そういうよその商店街から我々の通行しているお客さんに客引きに来るというのは、一つのマナーとして辞めてほしいと、そういうことは直に店に言うつもりなんですが。

 私どもの店も直営主義だったのですが、こういう時代ですからそれだけの社員の能力も各分野で養成するのは非常に難しくなってきましたし、店自体が独立して経営するとうことも困難になってきました。それで主要部分をテナントに出したのですが、募集で非常に苦労しました。

 通常、東京の繁華街の場合、山手線一周しましたら各駅に全国チェーン店、居酒屋さん…こういったものがどこの駅前にもあるんです。

そういう店に声かけましたが、全部「そうやなあ…」といった感じで。「アナタとこのビルは確かに十三の街の中ではある種の存在価値はあるんだが、十三という街に私どもの店を出すということについては考えてない」とか、あるいは社長が「おもいしろいやないか」と言っても役員会で反対されたりとかで。

 去年の7月頃から募集をかけて最終決まったのが11月くらいだったんです。それも全部埋まっていないんですよ。条件的にも、ものすごい厳しいところで契約しているわけなんです。それは彼らから見たら商品価値がない、街として商品価値がない…、この辺が十三の繁華街の最も大きな問題だと思うんです。

 自分で商売するのも大変だ、人に貸すにも借りてくれない。それであって、それはそれなりの名の通った繁華街であることは違いないんです。十三の街がこの商品価値がないということに問題があるわけなんです。

 これほど立地条件のいいポジションというのは大阪では珍しいんですけれども。

京都に出るにも神戸に出るにしても、私鉄の分岐点で特急は止まるし、乗降客というのは阪急で2番に多い駅なんです。

確かに乗り換え駅ではあるが、外へは出ない。

十三の街自体に親しんでいる人が少なくなってきています。

 街おこしのきっかけ

 そんなことからいろいろ悩みまして、十三の街に親しんでもらおうとしたのが今から30

ほど前。

「十三どんとこい祭」をしようと、地元の婦人会の人たちと十三の盆踊りみたいなものを商店街を中心に商工祭というような形でつくったんです。

 17回目までいったんですかね。ところが、これもやっている人間と見てる人間にギャップが出てきた。

「あんなもんなんでやんねん」と。ホステスを昼に見てですね、「なるほど夜暗いところで見たら見られるけれども、昼間表でパレードしてどないすんねん」と。

まあ好き放題なこと言われて…。いろいろな事情で廃止しました。

 それなら家族で楽しめる花火をしようかということになり、第17回と同時に第0回ということで、花火大会をやったんです。

当時中山先生(衆議院議員)に相談して「“平成淀川花火大会”という名でやったらどうや」ということで、建設省に淀川で花火できるように、相談に行ってくださったんです。

 寄付をいただきに回って、現在12000万円くらいかかるのですが、12000万円で2万発の花火を打ち上げているところは市内ではありません。しかも、大川ですからどこからでも見ることができる。あれほどどこからでも見えるという花火は珍しい。どこからでも見えるし遠方からでも見える。そんことで人気を呼んで今50万人くらい人が出ています。

 私も花火大会の副会長ということで、先日「副会長やったらもうちょっとなんかせーや」と呼び出され、会議に出かけたら56人しか集まっていないんです。

非常に親しい人ばかりですから、「これだけの人数であれだけの花火大会をやっているとは誰も想像せーへんやろう」と言ったのです。「だけど、これだけの人間で花火大会を運営するということはいつかは行き詰まりがくるよ。この機会に花火大会の組織を考え直してみないと」というような話をしていたんですが、全く今そのような状況にきているんです。

本当に非常に大きな問題です。会長は商工会議所の人が会長ということで、座っていただいて、知事が来られ、市長が来られて商工会議所の役員が来られて、組織上大阪市の後援はもらっているけれども、実際問題としてその資金は一件一件もらった5000円なり1万円を集め、そして花火の有料席によって資金を成り立たせているのです。これが赤字になったらまず次の時できません。

今何とかかろうじて黒字になっているけれども、これ一発大赤字が出たら誰が補てんするんやろうと。

そんなところまで今きてる。それが心配だし、この機会にもう一度花火大会の組織を考え直す。今年は無理にしても、今年は去年のエネルギーの延長で、とにかく今までやってきた人がねじりはじまきかけてやってもらうことにして、来年からはもう一度どのような花火大会にするのか、その在り方を地域に語りかけてみる必要があるんじゃないだろうかと思います。

 いろんな意味で、十三の街において花火大会も一つの“曲がり角”にきている。

花火大会の日はかえって商店はヒマになるんです。全部客をとられるものですから、街がガラガラになってしまう。花火大会の日は一番十三ヒマやと。売上が悪いと。

 花火大会が終わって9時から十三の街に戻ってくるのに、普通7分くらいで帰るところが歩いて1時間以上かかるんですよ。普通7分くらいで行けるのが1時間かかるんです。そして10時になる。10時になると早よう帰ろうよと。電車も十三駅から乗るのだけでも40分くらいかかるから、とにかく早く帰りたいと。花火が直接十三の街にお金が落ちないというのが現状なんです。

それ自体も十三の街の発展にどう結びつけるんやと、花火大会やっている人たちもその辺を悩んでいるわけなんです。

 街の商品価値が全て下がっている、そして人を呼ぶために花火大会やったけれども、やっぱ花火大会というのは一日しかない。

そして夜の一番肝心な時に川原に40万人くらい寄っていると。それが終わったら即帰る。街で一杯飲みたいと思っていても、あまりにも人が多いが故に早く電車に乗って家に帰らんとバスがなくなるとかですね、そういう状況にある。

 「何とかしましょう。我が街十三」

そんな中で、十三の街に親しんでもらうということで、「何とかしましょう。我が街十三」をつくりました。私が一応仮座長です。私のところにある会議室を使って、「十三に想い寄せている人誰でもいいから集まってよ」と言って集まったのが10人くらいなんです。

そしてその中で街の客引きの問題と何とかしようとか、十三の公園をもっと生かそうとか、十三にもっと集まる箱をつくってもらおうやとか…。

毎月一回第3土曜日くらいを中心に、2時間程度、コーヒーとケーキでいろんな話をするんです。

やはり、話をするだけでこれをどのように現実に近づけていくのかについては、まだまだ組織づくりをしなくてはならない、あるいはそれぞれに働きかけなくてはならないというような、いろんな問題があるものですから、1年くらいたってしまったんです。

しかし、とにかくこれだけ携帯電話が普及してんねんから、携帯電話の中のネットをだけでもつくろうやということになり、コンピューターに非常に詳しい人がいらっしゃいまして、その方を呼んで「look for Juso」という、このようなサイトをボランティアで立ち上げてくれたのです。

こんなサイトに参加しませんかと声がけをしたら、54の店の方が参加されました。「よっしゃわかった。そんなら載せてーな」という程度でですね、載せたんです。

そしてこれをどう発展させようかと…、みんな寄ってくださいと言ったところでまた10人くらいしか集まらない。

それならもっとケータイの中で出てくるんじゃなしに、街に見えるようなもの、もっとビジュアルなネットにしようやということで、(このような)ステッカーを参加店に貼ることにしました。

これ見て「なんやあれ」「なんなん、あのマーク」というようなことを思ってもらいたいと。この費用が1213万かかるんです。

 そこで誰がお金出すねんとなり、今までは一人の個人の努力でやっていただいたんですけど、これからやっぱりお金がかかってくる。

「どんとこい祭り」始めたもの栄町やから、栄町として私は会長に「50万円くらいお金、最初に出してーな」とお願いしました。

そうして、1年だけ栄町から50万円出すことになりました。

このステッカーをまず1000枚、のちには1万枚貼っていくんです。

時間が経って「車の後ろに“Juso”って書いたステッカー貼ってんで」と、「十三のFM放送かな」と思ってもらえるように、そういうものをとにかく貼ろうと。「あれ何やねん」、一度ほんならアクセスしてみようかと、いろんな人たちが増えて来る。

 まずここまでは「何とかしましょう。我が街十三」で一応の成果ということで、私の仮座長も座長にならないうちに終わらせてもらいたいということで、1年間やったところで終わったんです。


 お話の場

 【稲見】サンポードというあのビルをテナントに変えられてナショナルブランドを引っ張ってくるというのは、栄町の雰囲気を変えるということでは、これから大きな効果あるかもしれませんよね。

 【山川】そのような評価を少しはいただいているんですけど、実際のところ、まだまだですね。

私の向いに素っ裸の女性がちょっとシャワーみたいな浴びたような感じの看板があったんです。それで私はその店に行きまして、「この看板どおり貴方の店の中でやっておられるんですか」と尋ねたのです。「いや、違います。イメージです」「そしたら羊頭狗肉ですな」と。「その看板を表にぶら下げて中に入ってがっかりするようなことだったら看板変えてください」と。それでようやく変えてくれはりましたけどね。

若い女性が安心して店に入り、次は向い行こうねとか、ここのデザートおいしいからここで食べて帰ろうやとか、そんな街の雰囲気がないとなかなか…。

必ずしも若い女性だけが来てほしいと思っているわけではないんです。

それこそ商売する人であれば、若い女性をターゲットにするような店は十三ではあまり出さないと思うんです。効率からみて悪いですから。

キタとかミナミとかから比べればはるかに投資効率は悪いかもしれない。けれども、女性が好むような店もあって街のバランスがとれる。やはり大事だと思っているんです。

 十三の街の悩みはお客の顔が見えなくなったというのが大きい。そしてどこの街にでもあるような店が十三にはない。「松屋」さんとか「吉野屋」さんとかはあるんですけど、それ以上のものがないんですね。で、やっと「白木屋」ができ、「魚民」ができ、そして私どもの3階に「笑々」というモンテローザグループ東京がやっと店出しましたし、それから「ロックアップ」という、これ名古屋のお店なんですけど、いきなり手錠かけて連れて行くという…これは全国版ですから、大阪では阿倍野と江坂、十三にしかない。

全国チェーンがやっと十三に店を出していただいたわけです。

 それでも私は、ビルのオーナーとして見れば本当に出店してもらうのは至難だったですね。東京系の居酒屋さんは関西に進出するのに、「関西の繁華街をほとんど押さえてしまえ」ということで、市場戦略を今やっているんです。

なのになぜか十三は入らないんです。それ自体も問題がある。

 昔は十三というのは映画を中心として5大繁華街の一つだったんです。今は京橋の後じんを拝している。

 ナショナルチェーンが十三に出てこないと、やっぱり安心して街を歩くことができないというものよくわかるんです。ローカルな店ばかり固まってやっぱり何となく踏み入れにくい。やはりナショナルチェーン店、それらのブランドがあって、その中に地域の非常に変った独自の、そこしかないというような店が小さく軒を並べてあって初めて楽しい繁華街になるんですけど。

初めて来た人がナショナルブランドの店は安心やと、自分の普段食べている料理があるというようなことが一つの安心材料ですから、やはりバランス的にナショナルブランドの店があって、地域の独自の店がある…これが街の繁華街のいいバランスではないかと思います。

 昔「ハワイ」チェーンがございました。

社会主義の思想を持った経営者がいて、生活に困っているホステスを助けてあげるんだという思想を持ってつくられたミニサロンが「ハワイ」なんです。

 確かに、そういう店では指導を徹底的にやっておりました。生活のために闘うのだからこの辺までのサービスは喜んでやりなさい。しかしそれ以上のサービスをする必要もないし、自分の生活を大事にしなさいということで、展開されたんです。

 人気が出ると類似店がどんどんできました。

サービスも過剰になり、ついにハワイもそっちに流されて、その元祖であるハワイの経営者が逮捕されました。

 ピンクというのは、次はより強いピンクになって、次は赤になる。商売として、ピンクは白にならない。というような私持論があるものですか。

ピンクが来ると隣はもう一つ強いピンクになる。そしてその後に出てくるのは真っ赤なものが出てくる。

そして最後は街から鼻つまみにあうような店になってしまう、それがピンク産業の常なんですね。

 ピンクというのは最初はいいんですけど、その次がだんだん赤くなっていく。それが街に毒花になっていくよと。ロマンポルノだけで構成される街というのはあり得ないというのが私の持論なんです。

 【その他】:映画は一端衰退しましたが、最近またいい映画がぐっと人気が出ていると思うんです。

 【山川】これはやはりいい映画に対する思い入れがある人たちがつくっているんですね。

 東映のある監督と親しいのですが、とにかく監督が足を棒にして企業を訪問してその制作費を集めに行っているんです。あっちで500万円やっと協力もらえた。まだ半分にも満たない。一応1億になったら製作開始しようと思っているけど、1年経つと。

だから今の映画はなかなか資本のある会社で映画をつくるのは、日本でほとんどできないですよね。

 自分でつくりたい映画をつくってそして映画会社に売り込みに行く。これは興業価値あるなと見た場合は、そこから初めて映画会社がお金を出すのですね。

もっとひどいのは製作費どころか自分とこのコストを先に抜いてまうと、製作者の手元一番最後になるわけですから、残るのは借金しかない。

 映画のトラスト制度というものが日本にはないものですから、やはり映画のトラスト制度というのはもっと普及するようにすれば、立派ないい映画もできてくるだろうと思うんです。

 しかし、今不幸にして企業が悪いですからね。リストラリストラして。リストラしてんのに映画に金を出すのは何事やというようなこともありまして。

 映画のスポンサーになる、スポンサー映画なんて誰も見たくない。しょっちゅう看板の出てくるような映画なんて面白くないという。今なかなかいい映画をつくるのは難しくなっているんです。

 【稲見】一時期企業の社会貢献みたいなことが出たんですけど、あれも全然なくなりました。

【山川】アメリカのように興行権もつけてトラストで売るというやり方がありますが、日本の経営者というのは非常に頭が固い。映画というものは、享楽に近いということがあるものですから。映画に金を出すということは、本当にまれに映画好きな人が社長になった場合は別ですけど。映画が好きそうな社長というのは決まっているんです。「あそこ行ったらええで」ってなもんで、そこの社長はまた来たかってなもんでですね、社長いくら映画が好きだからといってそうそうはいかんでということですね。

 【稲見】私はサンポードに行くとき、栄小町を通って真っ直ぐわき目もふらずに行くのですが、正直ゆっくり行くというのはなかなか行きにくいものですね。

街の価値を高めるということになると、そういう意味では黒服の人を凌駕をするような街の人の流れつくっていく必要があると思うんですよ。サンポードの社長のエリアの場合、「第七芸術劇場」は十三の街を知らない時でも、こういう映画を観たいと、チケットを買って来ていたんです。

その方面から一つ何とかご努力できないかというのがあります。大上段の再開発論みたいなことは、現時点では「ちょっと無理ちゃうか」とおっしゃいましたけど、集客といいますか、若い人たちも含めて集まってくる街に再開発していくとすればどのような可能性があるのか、社長の考えを聞かせていただきたいです。

 【山川】「再開発委員会」というのが今でもあるのですが、私は会計で預金通帳預かっているんです。残高が10万くらいあったのかな。ちょっと見ていないんですけど。もう10年くらい一銭も支出ないままに毎回決算やっているんです。

 当時、区民ホールで再開発の第1回の会合があって、200人程集まり、すごい勢いでスタートしたんです。ところが、ワケのわからん、争いにならない争いのようなことになり、対立でもない、何かわからない嫌なもんで、人が集まらなくなってしまった。

 十三の駅前というのが構造的に狭いんです。十三の街の玄関口というのはやはり十三駅です。

私鉄ですから構造的に街の広場というのは狭いし、そこに商店が駅前にはりついている。そこの一つひとつに利がともないます。

それに構造的な再開発ということになりますと、国の一つのシステムでやるわけですから、そこを立ち退いたりどっか移ったりするという、そのようなエネルギー、引っ張っていくエネルギーというのは、本当に十三の街を良くしたいと願う人たちの中からしか生まれてこないのです。

 再開発ではなしに、箱ものをつくるんじゃなしに、もっと親しめる街づくり、ソフトから入らないとこれからの街づくりというのは上手くいかないんじゃないでしょうか。

 道路広くなった駅は立派になった、そして中に入ってくる店がなんか縁故で入ってきた、縁故で入ってくると街、店自体は元気のないものですから。縁故ばっかり入った箱物の建物なんで何の魅力もない。

人気のある箱をつくろうと思ったら、やはりこっちが頭を下げて来ていただくという条件づくりをしないと入ってこない。

 そして阪急さん自体が今も全く動きがない。

ここを再開発というよりも都市部分の連続立体高架というものに戻って高架しなくてはいけないんですが、三国とかそのあたりまで高架が全部きているわけですから。

しかしそれは、あまりにも膨大な工事であるし、あまりにも土地がなさすぎるということで、躊躇しているんじゃないかと思います。

 それと淀川にかかる鉄橋神戸線と宝塚線を京都線までのレベルにあげなくてはならない。この費用は一体誰が出すねんと。国が全部それを負担するのかと。そういうようなことになってくるとまた大きな問題です。

 「自分の生存中に絶対実現できない」ということを知っている。自分の生きていない先の話なんか一生懸命せーへんというのではなく、やっぱり自分が死んだ後の街のイメージを持って、今自分がどれだけ犠牲になるかということを考えてやらないと、やはり街の再開発はできません。

 自分が生きている間に再開発していい目あうんだというのは、これは今30歳くらいの経営者でないとそういうもの出来ないですからね。だから街はハードだけでなくソフトづくりからだという私の考え方があるんです。

【稲見】少し可能性があるとすると、前も少しお話させていただきましたが、西口のロータリーを中心にして「三和」「三井住友」、ここに「さわかや」と「近畿大阪」とあります。「さわやか」「近畿大阪」はテナントビルに入ってますが、自社ビルに入っているあそこは最低さくらと住友は一つでいいですよね。その辺がどんな動きになるのか、しかし大阪市にどんな体力があるのか。

 【山川】銀行さん自体がものすごい自分を守るのに精一杯で、それを三行が寄って空中店舗にしてこの1階をフロアーにしようという判断を出来る役員さんっていないと思うんですよね。

そういう考え方が生まれてくるには、銀行自体が非常に余裕のある時期でないと。

今のようにあれだけ追い込まれていると、銀行は体力自体が問題の時にそこまで街の声を聞く余裕があるのかなと思うんです。それはもう少し先の話にならざるを得ない。

 今は法人の取引なんかは法人専用の支店に行くし、預金といったってATMが中心、カウンターなんかいらんやないかと。「上にあがって欲しい」と、「一階を開放してほしい」と街の願いとしては言っても「わかってるけどそんなこと聞いている余裕がないんや」というような、そんな状況にあるんだと思います。

 遠い視点で、死んでからあと30年くらい経った時点で十三の街というのはどんなふうになっているのだろうという視点でやっていかないといけないと思います。

 【稲見】「なんとかしましょう。我が街十三」はこのステッカーとIモードで一つ出発しましたが、官庁との連絡とか組織づくりというようなところはこれからの「なんとかしましょう。我が街十三」を母体にしてまた組織を広げていこうというような構想はお持ちなんですか。

 【山川】出来るだけ多くの方々に語りつづけていき、その輪が広がり、街が少しづつ変わっていくことを期待しています。

まあ、とにかくステッカー貼って一度反応見ようかと。そしてこれ面白いやないのという人がもう一度何かの形で寄ってよと。その時にこの一年間の話してきたことを、私呼んでもらったらいつでも話をする、というステップを期待しているんです。


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第3回 十三のまちからU 山川 暉雄(サンポード株式会社 代表取締役社長)
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